浅田真央 オリンピックの年齢制限(フィギュア)で出れなかった理由は?バンクーバー、ソチ・フリーがラスト五輪!

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浅田真央(あさだまお)さんが、トリノオリンピックに出られなかったことは有名です。

その理由はフィギュアスケート競技の年齢制限でした。

当時、浅田真央さんは15歳でシニアのグランプリファイナルで優勝しており、出場できていたら好成績が期待できたといわれています。

この記事では、トリノオリンピックにフィギュアスケート競技のオリンピック年齢制限で出られなかったこと、出場したバンクーバー、ソチオリンピックでの活躍を振り返ってみます。



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浅田真央、トリノオリンピックには年齢制限で出られず、フィギュアスケートの規定は?

浅田真央さんは、シニアデビューした2005年のグランプリファイナルで金メダルを獲得。

トリノオリンピックでの金メダルの有力候補と日本中で期待の声が上がりました。

残念なことに、彼女にはオリンピックに出場する権利がなく、トリノオリンピックには荒川静香さんが出場し、見事金メダルに輝きました。

では、なぜ浅田さんはトリノオリンピックに出場できなかったのでしょうか。

オリンピック憲章の第5章47に「健康上の理由で国際競技連盟の競技ルールに定めている制限以外にはオリンピック競技大会に参加する競技者に年齢制限はない」とあります。

これは、オリンピック自体には年齢制限はありませんが、競技連盟が年齢制限を設けていると、それに従うということですね。

競技ごとに年齢制限が異なっていて、フィギュアスケートの場合は「開催前年の6月30日までに15歳に達している」です。

浅田さんは1990年9月25日生まれです。トリノオリンピック開催時には15歳に達していました。あと87日早く生まれていれば、この条件はクリアしていました。これは、平昌オリンピックの紀平梨花選手にも当てはまりました。紀平選手は2002年7月21日生まれですから21日足りませんでした。

男子と違って、女子は低年齢化が進んでおり、シニアのグランプリシリーズで活躍しても、オリンピックにはでられず、4年後に出場してもメダル獲得できない選手が増えるのではないかと思います。

ジャンプだけがフィギュアスケートの得点源ではないのですが、現行のルールでは4回転ジャンプを跳べば跳ぶほど、高得点となる構図が出来上がっています。そのため、15歳という基準が少なくとも変更されることはないと思われます。



浅田真央バンクーバーオリンピックで銀メダルの成績を収める!

真央さんの2010年のバンクーバーオリンピックから詳しく見ていきましょう。

オリンピック前年の2008-2009年シーズンからは、コーチがタチアナ・タラソワでした。浅田さんは、ルッツとサルコウを苦手としています。にもかかわらず、彼女は浅田真央選手が苦手としているルッツとサルコウをプログラムに入れます。

サルコウは、この2008-2009年シーズンまでは長くプログラムに取り入れていませんでした。2008年のNHK杯で久しぶりに3回転サルコウに成功しましたが、その後の試合では不安定なことが多くて、3回転サルコウを回避してきていました。

ルッツの場合、本来はアウトサイドエッジで踏み切らなければなりません。しかし、浅田さんは、インサイドエッジで踏み切る癖があり、2007年のルール改定でエッジ判定が厳しくなり、減点となっていました。2008-2009年のグランプリファイナルにおいて、正確なエッジと判定されましたが、苦手意識はなくならず、その後も3回転ルッツが2回転になるといった失敗が続いていました。

3回転-3回転のコンビネーションジャンプに関しては、浅田さんは3回転フリップ-3回転ループを得意としています。そのため、バンクーバーオリンピックシーズンのフリーの『仮面舞踏会』には、「3回転ルッツ-3回転サルコウ」のコンビネーションジャンプを入れなくなりました。

さらに、フリーではトリプルアクセルを2度跳ぶことをタラソワコーチは課題としました。この年のシーズン2戦目のNHK杯のフリーで2度の3回転アクセルに挑みました。2度目で回転不足となりますが、他の選手に大差をつけて優勝しています。続くグランプリファイナルでも、国際大会では女子史上初となる2度のトリプルアクセルに成功して、2度目の優勝を果たしています。

続く全日本選手権で3連覇し、世界選手権に出場します。だが、SPで3回転-フリップ-3回転ループに成功するも、3回転ルッツが2回転になり出遅れます。フリーで2度の3回転アクセルに挑戦するも、転倒や小さなミスにより、総合4位となりました。これによりシニアの国際大会では初めて表彰台を逃してしまいました。

2009年の国別対抗戦のSPで3回転アクセルのコンビネーションジャンプに成功します。フリーでも2度の3回転アクセルにチャレンジし、2度目が回転不足と判定されましたが、自身初の200点超えを成し遂げました。

そして、迎えたオリンピックシーズン。

ショートプログラムとフリープログラムで合計3度の3回転アクセルを決めることに集中する構成に変更しました。前年は、3回転アクセルをフリーでのみ計2度の入れ、3回転のコンビネーションジャンプに加え、3回転ルッツやサルコウも跳んでいました。しかしながら、ジャンプの回転不足が厳しく判定される傾向があり、3回転の連続ジャンプが成功とみなされないことが多くありました。それにより、SPとフリーの両方にトリプルアクセルを入れるように変更したのではないでしょうか。

そして、本番のバンクーバーオリンピックではショートで1度、フリーで2度3回転アクセルに成功しました。しかし、このシーズンでの競技会と同じようにプログラムには3回転ルッツ-3回転サルコウを入れていません。また、3回転フリップが回転不足に、3回転トウロープが1回転となってしまいます。そのために、技術の基礎点が全体の6位となりました。しかし、無事に成功したジャンプでは高いGEO(出来栄い点)を獲得しています。また、演技構成点での高い評価を得て、自己ベストを更新して銀メダルを手にしました。

得点源がトリプルアクセルの浅田真央選手に、難度の高く、得点を多く稼げる3回展の連続ジャンプと高得点なる表現力で挑んだキムヨナ選手の戦いでした。

この時に、クリスティー・ヤマグチに敗れた伊藤みどりさんを重ねた人も多くいたのではないでしょうか。ジャンプの伊藤みどり対表現力のヤマグチ。トリプルアクセルを含むジャンプは試合当日の選手のメンタルによっても不成功となり、転倒につながりかねない、言わば確実性が高いエレメンツではありません。伊藤みどりさんほどの選手ですら、トリプルアクセルを武器に金メダルを獲得できませんでした。それに対して、表現することにジャンプの出来不出来ほどの波はありません。確実に稼ぐことができる得点源なんですね。

結果的に、バンクーバーオリンピックの女子シングルの金メダルは韓国のキムヨナさんが獲得しました。

試合後のインタビュー中に、真央ちゃんがこらえきれずに涙する姿に、日本の多くのファンがもらい泣きしましたね。どうしても、なんとしても、次のソチオリンピックでは、浅田真央選手に金メダルを取らせてあげたいと多くの日本のファンは思った瞬間でした。

オリンピック後の世界選手権ではオリンピックチャンピオンの子キムヨナさんを破り、浅田さんは2年ぶりの優勝を飾りました。これがオリンピックであればと、多くの真央選手のファンは思ったはずです。



浅田真央のコーチ、タラソワから佐藤信夫にバトンタッチ!

2009-2010シーズンのコーチはロシアのタラソワさんでした。

その後、2010-2011シーズンの6月から9月頃まで長久保裕さんをジャンプの専門コーチにつけて、6種類すべてのジャンプの矯正に取り組みました。その後、9月から佐藤信夫コーチとなり、ジャンプの矯正を続けました。

この年のGPシリーズでは、NHK杯が8位、エリック・ボンバール杯が5位となっています。新しく変えたジャンプに苦しみ、2大会とも表彰台に登れず、結果的にGPファイナル進出を逃しました。

全日本選手権では、SP1位、フリー2位で、総合2位となりました。四大陸選手権では、SPで3回転アクセルの着氷が乱れたもののフリーでは成功し、シーズンベストを大幅に更新し196.30点で安藤選手に次いで2位でした。東日本大震災の影響で例年の1か月先に延期の世界選手権ではSP7位、フリー6位の総合6位となりました。大会本番に佐藤コーチから3回転アクセルを回避するように提言されましたが、浅田さんが自分の信念をつらぬいての結果でした。

2011-2012シーズンはNHK杯2位、ロステレム杯優勝し、3シーズンぶりにカナダでのグランプリファイナルに進出しました。しかし、以前から体調不良だった母親の不調悪化の連欄を受けて日本に帰国し、欠場します。その後、母親は肝硬変により死去。浅田は結局、母の死の際に間に合いませんでした。葬儀の翌日には、練習を再開して、全日本選手権に出場します。2年ぶり5度目の優勝を涙で飾りました。
そういえば、「そんなことがあった」と、皆さんも当時を思い出したのではないでしょうか。

四大陸世界選手権では、SP、フリーともに3回転アクセルに挑みますが、どちらも回転不足となります。SP首位にたったものの、フリーでは、サルコウ、ルールのジャンプにミスがあり、2位に終わります。それでも、総合点188.62でシーズンベストを更新しています。

続く世界選手権では、SP、フリーの両方で、3回転アクセルを含んだジャンプにミスを連発し、164.52のスコアでの2連続総合6位となってしまいました。
2012-2013年シーズンは中国杯とNHK杯と連勝をして、GPファイナルに出場し、4年ふり3度目の優勝を飾ります。全日本選手権でも、2度目の2連覇と6度目の優勝を果たします。

そして四大陸選手権では、SPの冒頭でトリプルアクセルを成功させます。総合205.45点と、バンクーバーオリンピックの自己ベストに迫り、3年ぶり3度目の優勝となりました。

世界選手権でも、SP6位の遅れを跳ね返し、フリーで134.37点となり、自己ベストを6年ぶりに更新しての2位。トータルでも196.47点での3位となり、3年ぶりの表彰台となります。このシーズンは国際大会と全日本選手権合わせて、6戦中5勝の成績を残し、復活を果たしました。

2013-2014年には、スケートアメリカで優勝し、グランプリファイナルを含むグランプリシリーズ全7大会をすべて制した史上初のスケーターとなりました。そして、NHK杯も2連覇、グランプリファイナルでは、歴代最多タイ記録である4度目の優勝を飾りました。



浅田真央ソチオリンピック、ショート16位からの感動のフリー

見事、復活を果たし、浅田さんは2度目のオリンピックであるソチオリンピックに悲願の金メダルを目指します。

まず、団体戦のSPに臨みました。冒頭の3回転アクセルに失敗し3位となりました。そして、本命の女子シングルのショートプログラムでもジャンプでの転倒が相次ぎ、考えられない16位に沈みます。

浅田真央選手にオリンピックの女神がほほ笑むことはないのかと、日本中が沈みかえった瞬間でした。もちろん、本人も放心状態となり、演技後のインタビューで、「何もわからない」と答えるのが精一杯となりました。

翌日のフリーでは、クリーンに着氷したトリプルアクセルを決めて、さらに女子史上初の全6種類、合計8度の3回転ジャンプも成功しました。その結果、自己ベストを更新しての142.71のスコアで、3位となりました。演技後には涙を浮かべて、歓声に答えてリンクを後にしました。

トリプルアクセルに限ってみると、バンクーバーオリンピックで3回成功していますので、オリンピックの2大会連続の女子での初めての快挙となりました。

このフリーの演技は、ショート16位の中、あきらめない浅田真央選手の姿勢に、全世界で大きな感動を生み、今でも伝説のフリーと呼ばれています。そして、浅田選手の生涯最高スコアになりました。ソチオリンピックでから6年がたった今でも、YouTubeなどで、この演技を見られている人が多くいますよね、私も改めて、見直しました。

ソチオリンピックでの順位は総合6位入賞となり、演技後に世界中から寄せられた応援と称賛の声に対して、「昨日はすごく悔しい思いをして、心配してくださった方もたくさんいると思うんですけど、今日はこうして自分の中で最高の演技ができてので、恩返しができたと思います」とコメントしています。



オリンピックチャンピオンにはなれませんでしたが、浅田真央選手は、日本だけにとどまらず世界中で愛されるスケーターとなりました。

浅田真央選手のスケート人生を、特に印象深く今も世界中で絶賛されるソチオリンピックでのフリーの演技にたどり着くまでの苦難の道のりを見てきました。

グランプリファイナルを制しながらも、年齢制限により出場できなかったトリノオリンピックにもし出られていたら、と考えずにはいられません。あの当時、「真央ちゃんなら、次のバンクーバーオリンピックで金メダルがとれる」と、日本中の方が思ったのではないでしょうか。結果として、トリノオリンピックでは荒川静香選手が日本人初の金メダルを獲得し、日本中が歓喜にわきました。そして、韓国のキムヨナ選手が、バンクーバーオリンピックで金メダルを、続いてソチオリンピックでも銀メダルを手にしました。

14歳の天才少女と日本中を「真央ちゃんフィーバー」に巻き込み、金メダル獲得は確実と思われた浅田真央選手は、バンクーバーオリンピックの銀メダルの獲得だけでの現役引退となりました。

今、ロシアの若い女子選手がフィギュアスケート界を席巻し、オリンピックチャンピオンのザギトワ選手が現役引退かと思われる結言をしています。ますます低年齢化が進む現状を浅田真央さんはどのように思われているのでしょう。

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